第12話
「涙」

7時半に起きたら、「起きるのが遅すぎる」と言っているミルドレッドの声が聞こえた。8時に朝食を摂ろうと思ったら、オジーが「行くよ」と言う。車で送り迎えの王子様生活はとっくに終わっているはずだった。ある日突然「歩いて行きなさい」と言われ、徒歩に切り替えてから随分と経つ。それなのに、今日は車に乗れと言う。僕は朝食もまだだったので、「歩いて行きます」と言ったら、
「ダメ!私たちと一緒に出るんだ。もっと早く起きなさい」
と言われてしまった。実際、学校が始まるのは9時だ。学校まで歩いて10分程。果たして、なぜそこまで急ぐ必要があるのか分からなかったし、7時半起床が遅いと言われることも理解出来なかった。仕方なしに車に乗り、学校に着いて車から降りようとした時、僕は確認した。
「帰りは歩きですか?」
「もちろん!」
さっぱり分からない。車で行けと行ったり、歩けと言ったり。何もかもが気まぐれか?

アメリカ文学の授業が始まる前、ノートに日本語の文章を書いていたら、マイケルが覗き込んできた。
「将来、日本に行くかも知れない!」
と言った。こうして、日本語や日本に対して興味を持ってくれるのは嬉しいことで、こういうところから友達になるのだろうか、と思った。案外素っ気無いマイケルだったが、今日は楽しく会話が出来た。こんな些細なことで、僕の心は躍るのだった。

放課後、僕はいつものようにオジーのいる店に行った。何か手伝いがあれば手伝いをし、なければマーサローズのピアノ教室に顔を出すのだ。店に行くと、ちょうど同じ学校に通っているネオスキーが来ていた。この近くに住んでいるとは知らなかった。オジーもよく知っていると言う。オジーはネオスキーに訊ねた。
「コウは学校でどうだい?」
「彼はおとなしいわ!」
おとなしい、と僕はよくアメリカで言われたが、僕はその言葉を聞くのが大嫌いだった。僕は英語が出来ないからおとなしいだけだ、と心の中で反発していた。実際は、英語が出来ようが出来まいが、気の合う人とであればよく喋ったのだが・・・。ネオスキーが店を出た後、オジーは僕の日頃の生活についてあれこれと言い出した。まるで、僕が毎日何もやっていない怠け者かのような言い方をした。
「シェイヴィスは何も言わなくても、やる事分かってる」
「僕は何もしていない、という意味ですか?」
「君は何をしてる?」
「皿洗いもしてる、庭掃除だってやっている」
「庭掃除は何回?」
「週に1回。だって土曜日の朝にやれと言われたから」
「毎朝やりなさい」
「朝?あなたは以前、夕方やれと言いましたよね?」
「言ってないよ。それから、部屋はキレイにしておかなければならない。ゴミも捨てる。いつもミルドレッドがやってるよ」
「僕はいつも綺麗にしています」
「そうだね。では、このコミュニティーで君は何をしてる?コミュニケーションだってとらなければいけない。そういうことはしているか?」
「さっきネオスキーは学校でおとなしいと言ってたけど、僕は僕なりに精一杯話すようにしています。日本にいた時よりはおとなしいです。でもそれは英語力不足だから。日本語で話す時のようには話せないのです」
「分かってるよ。“郷に入ったら郷に従え”だよ」
「そうしているつもりです。ここの文化に合わせているつもりです。そうしているようには見えませんか?」
「見えるよ」
・・・何が何だか訳の分からない会話だった。ミルドレッドとは違い、オジーは70歳を超えているだけあって、穏やかで優しい人だった。そのオジーに指摘されたことはショックでもあり、自分なりに精一杯やっているつもりでも、そうは見えていないのだと思った。でも、僕が「そうしているつもりだけど、そうは見えませんか?」と確認すると「見える、分かってる、そうだね」と言うので、だったら言う必要がないではないか・・・と僕は混乱した。

誰にも理解されないという状況は心を荒ばせるだけである。その日の夕食、いつものようにオジーと二人だけで台所で食べ、ミルドレッドはリビングでひとり食べ、その後二人の皿を僕が洗っている最中、日本の母を思った。そうだ、あの時、僕は母を理解しなかった。自分のことしか考えず、母の気持ちを理解しようとする姿勢がなかった。でも、僕は今、分かる。それを思ったら、自然に涙が出た。僕は母に対してどんなに無神経だったんだろう。僕は涙を流しながら皿洗いを終え、ホストに気付かれないよう、ダイニグルームを通って自分の部屋に戻った。ドアを閉め、泣いた。

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