第37話
オードリーが晩年過ごした村

12月23日(水)。朝、目が覚めると、昨夜出会ったあやしい男が側に立っていた。
「おはよう。今日車で一緒に観光しようよ。中国人の友達も来るんだ」
しつこい男だ・・・。
「友達に電話してくるよ。下にいるから、来てね」
さっきから断っているのに全く引かない。彼が下に行った後、僕は本当にどうしようかと考えた。とてつもなくあやしい男と車で観光などしたら、何処に連れて行かれるか分からない。どうやってこの状況から逃れよう?悶々と考えていた時、なんと彼がまた部屋に戻ってきた。が、彼はすぐにトイレに入ったので、僕はその隙に素早く荷物をまとめて、走って逃げた。

宿代は前払いだったのが幸いした。ユースを出てからも僕はバス停まで走り続けた。バスに乗ってやっと胸を撫で下ろした。駅で降りて、モルジュ行きの電車に乗った。モルジュからバスに乗り換え、トロシュナという小さな村に降り立った。ぶどう畑が広がるとても穏やかなこの田舎村でオードリー・ヘップバーンが晩年を過ごし、現在は、オードリーの記念館と、オードリーの眠る墓がある。昼前に着いてしまったので、記念館はまだ開いていなかった。昼食を摂ろうにも、店がない。仕方なしにまたモルジュに戻り、千円のランチを食べ(空腹は満たされなかったが)、またトロシュナに向かった。

村の人たちがボランティアで管理しているというオードリー・ヘップバーンの記念館はとても小さかったが、温かな空気に満ちていた。そこから少し歩いたところに墓があった。僕は周辺の住宅地を歩いて回った。本当に心が落ち着いた。ゆったりと流れる穏やかな空気の中で、オードリーは本当に安らぎながら晩年を過ごしたのだろう。ジュネーヴやローザンヌの観光地よりも、目ぼしいものなど何もないこの小さな田舎村の方がずっと感動的だった。

とは言っても、寒い中、カフェもレストランも見当たらず、ずっと外にいるわけにもいかないので、一巡りした後はまたモルジュに戻り、そこから電車でヴヴェイに向かった。チャップリンが過ごした町で、現在も別荘が残っており、息子が住んでいるのだと言う。僕は夕方に着いたのだが、あまりの寒さに別荘まで行く気にはなれず、駅周辺を散歩した。湖に沈む夕陽があまりにも美しく、ベンチに座りタバコをふかしながら、ボーッとレマン湖に沈み行く夕陽を眺めていた。物思いに耽っていると、若い男が近付いてきて「タバコ1本貰える?」と訊いてきた。見知らぬ人にタバコをねだるのも、ライターを借りるのも、ヨーロッパではなんら珍しいことではない。これまでタバコを吸わなかった僕には縁のない話だったが、ついにそんなヨーロッパの習慣に触れる時がきた。

結局散歩するだけに留まったヴヴェイを後にし、モントルーに向かった。ジャズ・フェスティバルが行われるリゾート地だ。しかし僕が着いたのは夜。「地球の歩き方」に書いてあるユースホステルに行くと、冬の間は休館していることが判明。もうひとつの安宿に行くと、外観からしてお化け屋敷のように不気味。このお化け屋敷に泊まるか、それともローザンヌの綺麗で明るいユースに戻るか。僕はかなり迷った。ローザンヌに戻れば、あのあやしい男がまたいるかも知れない。今朝逃げたことを咎められるかも知れない。どうしよう・・・。しかし、お化け屋敷に泊まる勇気はなく、僕はローザンヌに戻ることに決めた。着いた途端、ローザンヌの都会的な雰囲気になぜか安堵した。ユースの明かりが見えると更に気持ちが落ち着いたが、あの男がいるかと思うと憂鬱だった。

第38話につづく

フランス留学記目次