ジョージア滞在3日目。ホストマザーとスーパーへ。20年前もこうしてよく買い物に連れて行かれたものだ。そして車の中で色んな話をしたのだ。今回も、あらゆる会話は車の中だった。今育てている2人の養子の親は、麻薬中毒になりそれぞれ刑務所で服役中なのだとか。これまでそういった多くの子供たちの面倒を見てきて、この2人は縁あって養子にしたのだそうだ。アメリカにいると、日本ではあまり聞かないようなショッキングな話を耳にすることが多い。

買い物の後は、ホストファーザーの両親宅へ。当時僕は2〜3回しか会ったことがなかったが、顔は覚えていた。2人共パジャマ姿で遅い朝食中だった。とっても元気そうで安心した。まさかおじいちゃん、おばあちゃんと会うとは思っていなかったので、再会出来て嬉しかった。アメリカの極々普通の家庭の朝食の時間、穏やかで良い時間だった。ホストマザーの両親は隣のアラバマ州にいた。今も元気かと訊いたら、お父さんは数年前に亡くなり、お母さんはその後再婚したのだとか。アメリカでは何歳になっても、伴侶を亡くすと再婚する人が多いんだなぁ。友達のお父さんも奥さんを亡くした後に再婚している。

ふとホストマザーの前夫を思い出し(当時、ホストマザーの息子は前夫と一緒にアラバマで暮らしていて、僕は2度程会う機会があった)、「そういえば、前夫元気?」と訊いたら、「あら!よく覚えてたわね!!元気よ。今じゃいい友達って感じで、当時よりも仲良くしてるわ」などと言っているところに、その前夫から電話がかかってきたので2人して驚いた。しかしそれよりも、当時よりも仲良くしているという言葉に僕は驚いた。人は変わるものだ。ホストマザー自身が「私は変わったわ」と言った位だから、本当に変わったのだ。年齢もあるだろうが当時とは比べ物にならないくらい穏やかだ。
「私ね、もうカリカリ怒ることはやめたの。怒りって物凄いエネルギーじゃない?今じゃ、毎週末教会に行ってるわよ」
「ええええええええっ?!毎週末?!?!当時、年に1回しか行かなかった人が、今や毎週末行ってるの?」
「信じられないでしょう!!それがホントなのよ!!」
ヒステリックから遠ざかったホストマザーは見た目もふくよかになったが、中身も比例したようだ。ふわふわと穏やかなホストマザー、何だか幸せそうだ。あの頃のホストマザーも懐かしいけれど。

今日の夜は当時の高校の友達や先生たちと集まることになっている。
「あなたが当時プロム(ダンスパーティー)に一緒に行った相手ってDっていう名前の子?」
「そうだよ」
「その子の親友が、今、私の職場のランチ友達なのよ!聞いてビックリよ。あなたと同じキャス高校に行ってたって言うから、昨日“日本人のコウ”って知ってる?って訊いたら、“知ってるー”って大騒ぎしてたわよ」
世間は狭い。でも僕はその人の名前を聞いても、誰なのかは分からなかった。僕は当時、唯一の日本人留学生だったこともあり知られる存在だったが、今思い返すと、僕はそんなに幅広い交友関係は持っていなかった。今回も僕のジョージア再訪を聞き付けた人がSNSを通じてメッセージを送ってきたり、他の友達を介して皆で集う同窓会に参加したい旨伝えられたりしたが、正直言って僕が覚えていない人ばかりだった。写真を見れば思い出す人もいるが、さっぱり思い出せない人もいたので、そういう人への対応は困ってしまった。何の記憶もないということは、友達関係ではなかったことを意味するので、今会ったとしても僕としては「初めまして」になってしまい相手に対して失礼だ。会いたいと思ってくれるのは嬉しいのだが、極めて少人数でやろうとしている同窓会に、僕の知らない人が混じるのには抵抗があった。


1995年5月、プロムに行った後、自宅にて

昼過ぎになってから、K先生が迎えに来た。今夜一泊、K先生の家に泊まり、明日の夕方にはサンフランシスコへと向かうことになっている。また明日ホストマザーには会いに来るので、ひとまず別れて、僕はK先生の車に乗り込み思い出のキャス高校へと連れて行ってもらった。とっても懐かしく、思い出深い場所である。沢山の困難と沢山の笑いと喜びが詰まった場所だ。今、キャス高校は新しい校舎が出来て別の場所に移転している。僕が通っていた当時のキャス高校の校舎は今でも残っていて、職業訓練校として使われている。残念ながら中には入れなかったので、外観だけ見て回ったが、本当に本当に懐かしくて、中に入れないのがすこぶる残念だった。

スクールバスから降りると、学校の向かい側にはいつもこの景色があった いつもこの玄関から学校に入っていた
遠くに黄色いスクールバスが見える
今回初めて知ったのだが、キャス高校は僕と“同い年”なのであった

当然ながら、1年間のアメリカ留学で思い出すのはこの学校のことだ。大部分の時間をここで過ごしたのだから。今こうして再会出来た人もいるが、ジョージアから引っ越してしまい今回再会出来なかった人たちも結構いる。そして、もう二度と会えない人もいる。フランス語の先生は、数年前、50代後半にしてアルツハイマーを患い、兄弟の勧めもありテキサスの介護施設へと入った。好きな仕事を辞めざるを得ない、その悔しい状況を先生はどんな思いで過ごしたのだろうか。先生のお母さんもアルツハイマーで、どんな症状なのかを知っていたから、自分も同じ病気になったことを認識していたのだという。さぞかし恐怖に打ちのめされただろう。介護施設に移ってから、K先生が見舞いに行った時は何となくK先生のことを覚えていたようだが、次に行った時にはもう認識できなくなっていたらしい。あんなに冗談が好きで明るかった先生の口数は減り、食べることも忘れ、そして数日前に天に召された。僕のことを「日本の息子」と言っていたのに、再会すら叶わなかった。だけど、この学校で僕が先生と共に学び、笑い、過ごした時間は決して忘れない。キャス高校には多くの想いが詰まっている。今にもそれが溢れ出しそうだった。


1995年当時、キャス高校にて

Part 9 「See you later, alligator!」へ

INDEX
Part 1 20年ぶりに降り立ったアメリカ、その時胸の高鳴りは…
Part 2 誰も迎えに来られず、あわや“空港でひとり茫然物語”…?
Part 3 出発前からイライラ…すべてがスムーズに行くワケはない
Part 4 ついに再会!けど、冗談もほどほどに!
Part 5 なぜか日本食レストランで
Part 6 記憶にございません
Part 7 マッサンと美しいケツ
Part 8 穏やかな人、穏やかな空間、切ない時間
Part 9 See you later, alligator!
Part 10 ジョージア最終日に“だっふんだ!”
番外編 サンフランシスコぶらり散歩〜ミッション・ポッシブル〜