エピソード Vol.5
「連絡」

ベリンダには、アトランタ・オリンピック開催中の間、とある企みがあった。世界中から人が集まってくるその時期は、地元でオリンピック観戦などせず、どこかに旅行に出て、家を誰かに有料で貸す、というものだった。
「出来れば日本人がいいわ。綺麗に使ってくれそうだし。日本に帰ったら、新聞とかに広告打っておいてもらえる?」
そんなことが本当に実現するのだろうか・・・と僕は半信半疑だった。帰国後程無くして、なんとベリンダから電話がきた。寝ている時だったので、僕の頭はボーッとしていた。
「元気?あら、あなた、英語の練習してないでしょう!下手になってるわよ。ところで、オリンピックの広告は打ってくれた?まだなの?もし見つかったら連絡ちょうだいね。それと、英語を忘れないようにちゃんと練習するのよ!じゃあね!」
僕は僕でオリンピックにはボランティア通訳としてアトランタに行くはずだった。だが、そんなお金もないことは明らかであり諦めざるを得ず、オリンピックの間に家を1軒丸ごと借りたいなどという日本人を見つけることも出来ず、僕たちの“夢のアトランタ・オリンピック計画”は泡のように消えていった。

ケネディー先生がキャス高校のイヤーブック(アルバム)を送ってくれた。それには皆のメッセージも手書きで寄せられていて、懐かしい思いで眺めた。帰国した年こそ、僕は手紙を書いたり、クリスマス・カードを送ったりしていたが、次第に皆とは疎遠になっていった。僕の筆まめっぷりも、留学時代のようにはいかず、手紙を送ることさえしなくなった。大学入学が決まり、京都に引っ越す直前になって、数人に住所変更のお知らせを送ったくらいだ。

京都に引っ越して間もなく、クローフォード先生(フランス語担当)から手紙が届いた。アメリカ人にしては珍しく綺麗な筆跡の中に、心臓が止まる思いの一文を見つけた。
「フィリップのお母さんが、先日ガンで亡くなりました」
病気で手術をしたことは知っていた。だがそれが「ガン」であることは、フィリップから告げられていなかった。フィリップからは帰国後一度も手紙を受け取っていない。僕は、フィリップが時折見せた暗い表情や、「気分屋」と思わせるような気分の差の激しさを思い出していた。そして、一緒に中華料理を食べて、「これから病院に行く」とフィリップが言った時に、僕が冗談で「ワガママな奴!」と言い、彼がそれを冗談とは受け取らず「自分の母親に会いに行くのがなんでワガママなの?」と返してきた時のことを思い出しながら、僕は深く悔いた。まさかガンだったなんて・・・。

フィリップとはその後も連絡を取り合うことはなく8年が過ぎた。大学時代にケネディ先生から教えてもらっていたフィリップのホームページからメールを送ってみても、なしのつぶてだった。2003年になって何気なくまた彼のページを見て、再度チャレンジ。すると!すぐに返事が来たのだ。「なんでこのアドレスわかったの??」と大興奮ぶり。それまで送っていたメールはどうやら届いていなかったらしく、近況やら何やら、お互い長いメールを交換した。
「今度結婚するんだよ!いつか彼女と日本に行きたいと思ってる。お前もアメリカに来いよ!」
今ではたまにメールをするくらいだが、これからも連絡は取っていたいと思う。

ケネディー先生をはじめ、クローフォード先生やバートン先生とも数年に一度のペースでメールをやりとりしている。ベリンダとは大学時代に何回かメールを交換したくらいで、その後は途絶えているが、「フランスにいる間、アメリカに行くチャンスがあるかも知れない」と書いて送ったら、
「是非来てちょうだい!そのことを家族に話したら、皆大興奮よ。特にダラスが大喜びしてる。あなたがアメリカにいる時は、いつでも私が“アメリカでの母”であることを忘れないでね」
というメールが近況と共に送られてきた。バートン先生は、当時僕とミリンしかいなかったESLのクラスが今になって20人程の大所帯になり、「当時の方が良かった」と懐かしんでいた。ケネディー先生は「いまだに学校では君のことを話しては、クローフォード先生やバートン先生と笑っているよ!」と嬉しいことを知らせてくれる。

僕がフランスに留学している時、2月に2週間休みがあったので、それを利用してアメリカ行きを考えた。フランスからなら日本から行くよりも近いし料金も安い。遠い日本からわざわざ「再会」の為だけに渡米することは、これから先あるとは考えられなかったので、これが最初で最後のチャンスだと思っていた。ケネディー先生は興奮し、互いに密に連絡を取り合った。ある日、これまた僕が寝ている時に電話がかかってきた。アパートをシェアしていたアメリカ人のポールが僕を起こし、「電話だよ。しかも英語」と言う。
「え?なんで英語なの?」
「分からないけど・・・アメリカ人のようだ」
誰だろう?と思いつつ電話に出ると、懐かしい声が聞こえてきた!ほとんど英語は使っていなかったので、英語よりもフランス語の方がつい口から出てしまう。
「ああ・・・英語が戻らない」
もどかしい思いをしながらも、話していくうちに次第に勘が戻ってきた。
「どう?なんか英語を思い出してきたような気がする」
「うん、さっきよりもだいぶね。さっきはどうしたかと思ったよ」
「だって全然英語を話していないし」
「君は当時、早口英語が大好きだったじゃないか。聞き取れないくらいの早口でよく話してたの覚えてない?」
「そうだったっけ?ああ、なんとなく覚えてる!」
そんな話をしながら本題に入っていった。要は、2月にアメリカに来ることは大歓迎だけど、アメリカの学校が休みになっていないので、僕が退屈するのではないかということだった。フィリップはテネシー州にいるし、当時の友達も地元に残っている人は少ないという。
「ミリンは?」
「ミリンは家族でアラバマ州に引っ越したよ」
「えっ?本当に?連絡先は知らない?」
「分からない」
どうせ来るのなら、皆がいる時の方がいいのではないかとケネディー先生が言う。
「もう一度よく考えて、また連絡して」
これがラストチャンスだと思っていた僕のアメリカ再訪は結局取り止めにし、スペイン旅行に変更した。

アメリカを離れて11年が経つ今の段階で、僕は誰とも再会を果たしていない。

【2010年7月追記】
ある日、ケネディー先生から届いたメールをサラッと読んでいたら、奇妙な文面に辿り着き、一語一語を噛みしめるように読み進めた。
「来月、テキサス州サン・アントニオに行って、クローフォード先生に会って来ます」
クローフォード先生はジョージアにいるはずなのに、なぜテキサス?
「今、彼女(クローフォード先生)はテキサスにある介護施設に住んでいます」
介護施設・・・なぜ?
「アルツハイマー病に冒されてしまったからです」
体中に寒気が走った。クローフォード先生の声、笑顔、笑い声、ジョーク、英語訛りのフランス語発音、帰国の際にくれた昔のジョージアの絵が描かれたポストカード、先生の家、先生の息子さん・・・次々に蘇ってくる。
「まだ50代後半という、人生の中ではかなり早い段階でその病にかかってしまいました。何も覚えられなくなってしまう前に、もう一度会いに行こうと思ってます。クローフォード先生の近況を君が知りたがっていると思い、今回メールしました」

今、クローフォード先生は60代前半のはず。50代後半にその病に冒されてしまったということは、若年性アルツハイマーということになる。今の時点でどういう状態なのか、自ら望んでテキサスの介護施設に入ったのか、自分の病を認識しているのか・・・ 今回のメールには記されていなかった。今すぐにでも会いに行きたい想いに駆られるが、気軽に行けるような距離でもない。

ちょうど15年前の今頃、アメリカから帰国する前夜に、友人たちや先生たちをホストファミリー宅に招いてパーティーをした。あの時、皆は口々に僕に別れを告げて、それぞれの家に帰って行った。まるでまた明日学校で会えるかのような気持ちが抜けなかった。なぜ僕が皆に別れを告げられているのか、頭では理解していても、心が追いつかなかった。苦しいことが沢山あったのに、楽しい思い出ばかりのような気がした。バートン先生が去り際に「寂しくなるよ!!!」と大きな声で言った時、僕は自分がもう明日からは、この場所にいないことを認識した。

今度またいつ会えるのか、いつ会いに戻って来るのか、そんなことは考えなかった。きっといつか会えるのだろうと思っていた。でも実際は、この15年の間、誰ひとりとして再会は果たしていない。あの日々を思い出すと、まるで昨日のことにように色鮮やかに蘇ってくる。それは、切ない。

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