エピソード Vol.4
「英語弁論大会と大学受験」

約1年ぶりの日本、そして故郷の風景は変わっていなかった。想像していたような懐かしさを感じることがなく、本当に1年間アメリカにいたのかな、と思う程だった。母は、
「5年ぶりくらいならそう思うかも知れないけど、1年じゃあそれほど懐かしくもないでしょう」
と言った。確かにそうかも知れない。でも、何もかもが新鮮で日本にいられることがとても嬉しかった。何処に行っても言葉が通じるという当たり前のことにさえ感激し、自分の母国を刺激的に楽しんだ。ここは自分の国なのだ!居てもいい国なのだ!留学し始めの頃はカルチャー・ショック、帰国するとリエントリー・ショックと言って、逆カルチャー・ショックを受けるとよく聞いていたが、僕にはそれは全くなかった。

親元を離れて暮らしたことで、初めて親に感謝するということを覚え、遠くから日本の素晴らしさを実感したことで、自分の国というものにも感謝するようになった。そして、一年中空腹だった僕の食欲を満たすべく、とにかく食べまくった。冷蔵庫を開ければいつでも食べ物が入っている。しかも誰に咎められることなく食べられるという喜びを体一杯に感じていた。アメリカにいる間は全然太らなかったのに(逆に「痩せた」と言われた)、帰国して数ヶ月の間に10キロも太ってしまった。

帰国した翌日、学校に顔を出しに行った。久しぶりに会うクラスメイトとの再会は嬉しく、皆が温かく迎えてくれた。1週間家で休養し、僕は元のクラスに復学した。

のんびりしている暇はなかった。まず、留学した生徒は英語弁論大会に取り組まなければならない。高校1年の時に、僕は「一人っ子時代」というテーマで英語弁論大会に出場し、全国大会入賞を果たしていたので、今度は優勝を目指して頑張らねばと思っていた。テーマはアメリカにいた頃から考えていたのだが、なかなかこれといったアイディアが思い浮かばなかった。アメリカでは充分な教育を受けずに文盲のまま大人になる人が多くいることから、教育問題もしくは言葉の問題にしようか、それとも音楽をテーマに語ろうか、はたまた自分の国である日本を批判否定する日本人を取り上げようか・・・いろいろと考えたのだが、最終的には「無償の愛」をテーマにした。外国かぶれしていた自分が、母国を批判否定し、刺激のない毎日を嫌い、親への感謝をすることもなく、ただただ外国に憧れていたことから始まり、本当の幸せ、そして本当の愛というものを見つめ直す弁論だった。要は“無償の愛”見返りを求めない愛とは、両親そのものであること、そんな単純なことに気が付いた自分が素直に書いた弁論だった。が、地区大会では入賞出来ず、更に1年生の時に出場した弁論大会では予選落ちしてしまった。後に、地区大会の審査員をしていたアメリカ人の先生が言っていたらしいのだが、「賞を取ることを狙いすぎている」という見方もあったようだ。でも、あの時期にあのテーマで書いたことは、自分自身にとって意義のあることだと思っている。

大学進学については、アメリカ留学前からフランス語学科のある日本の大学に進むことを決めていた。アメリカでもフランス語を履修してみて、自分に合っている言語であると確信し、その思いは確実なものとなった。英語関係の学科を設置している大学は数多いが、フランス語関係となるとグッと減る。更に僕はあくまで語学(言語)にこだわり、外国語学部のフランス語学科だけを受験しようとしていたので、文学部のフランス文学科は一切外しての学校選びだったことから、更に選択肢は狭まった。全国の大学を調べ、僕は2校に絞ったのだが、担任は「滑り止めで英語学科や英文科も受験したら?」と言ってきた。しかし、僕は大学に進んで英語(もしくは英米文学)を専攻する気は全くなかった。確かに1年間の留学だけでは完璧な英語にはならないし、不充分だと実感していたが、もっと広い世界を見てみたいと心が強く望んでいた。せっかく齧った英語をそのまま劣化させていくのは勿体無く、更に向上させたいという気持ちもあったのだが、英語圏からはしばらく離れていたかった。アメリカで暮らし、外を見ないアメリカ人や「英語さえ出来れば恐いものなし」のような考えに沢山触れたことで、どうしてもそこから抜け出したくなった。3年間、大好きな英語漬けの毎日を送っていたことは自分の財産で、幸せなことでもあったけれど、どこかに「もういいかな」という気持ちが湧いていた。

通常、1年間日本の勉強をせずに留学生活を送った生徒は、受験戦争では勝てないと言われている。勿論その人の努力次第だとは思うが、高校2年の2学期から高校3年の1学期までの大事な時期に、受験向けの勉強を放棄しているわけだから、それは確かにうなずける。よって、僕たちは一般入学試験ではなく、受験科目の少ない推薦入学試験を狙うことになった。僕の第一志望の大学は、公募制推薦といって、規定の成績を満たしていれば誰でも受験することが出来た。受験科目は英語と小論文のみ。通常、推薦入学試験には面接も含まれるものだが、この大学は面接はなく、学力のみでの判定となっていた。ゆえに倍率が高くなる。第二志望の大学は、英語の他に国語と面接があった。

帰国してすぐに受験勉強に取り掛かったが、唖然とする現実が待ち受けていた。英語の点数や偏差値、要は英語の成績がガクンと落ちていたのだ。偏差値に至っては、留学前と比べて10以上も落ちた。これは相当な落ち込み方である。アメリカで1年過ごしたとはいえ、現地で学んだのは“使える英語”である。しかし受験で要求されるのは、使える英語ではなく“使えない英語”いわば“受験英語”だった。僕は受験英語に1年間触れていなかったせいで、問題が解けなくなっていた。これでは合格は難しい。焦った僕は夏休み返上で(受験生にとっては当然のことだが)、受験英語の勉強に没頭した。それと同時に英語弁論も進めなければいけなかったので、なかなかハードだった。

担任は「絶対に今年受かってやるという気持ちでなければ合格しない。来年もある、浪人すればいいや、そんな気持ちを持っていたら絶対に合格しない」と言った。僕は辛い受験勉強をしながら、こんな思いがまた来年も続くなんて絶対にイヤだという一心だった。東京の予備校の授業がそのまま衛星中継されてきたものを録画したテープが学校にあったので、放課後や夏休みは毎日それを見て受験英語を勉強し、受験用の構文集や単語集で構文力と単語力アップに努めた。

そんな中、第一志望の大学のオープンキャンパス(学校見学)が夏休み中にあることを知り、父と共に京都に出かけた。現役大学生や教授陣に話を伺い、更には受験のプロにこの大学の試験傾向とアドバイスを聞き、何が何でも合格してやるという意思を強くした。

大学のパンフレットやカレンダーを眺めては「ああ、この学校に入学したい」と思いを馳せ、自分自身を奮い立たせ、勉強に励んだ。そうしていくうちに、英語の成績は元に戻り、偏差値も上がっていったが、志望校の過去問題を解くと合格点には及ばなかった。

秋になり、学校では受験モード一色になった。第二志望合格の通知を受けた日、僕は第一志望の大学がある京都に向かっていた。第二志望とはいえ、合格したことは素直に嬉しかったのだが、その夜、母から電話で「気を緩めるんじゃないよ。第一志望に受かるよう、気を引き締めて頑張りなさい!」と言われ、武者震いを起こした。

そして僕は晴れて第一志望の京都外国語大学フランス語学科に入学を許可された。

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