エピソード Vol.3
「横田先生との再会」

藁にもすがる思いで助けを求めた横田先生とは、次第に連絡を取ることもなくなり、疎遠になっていった。でも、忘れていたわけではなかった。アメリカ留学中も、大学入学時も、フランス留学中も、横田先生のことはしきりに思い出していた。僕の現状を報告したかった。

出会いから13年が経っていた。12月、年賀状を書きながら、ふと横田先生を想った。お元気だろうか。当時の名簿を取り出し、僕は横田先生宛に年賀状を書いた。短いスペースに書ける分だけの報告を記した。

ところが1月になって、その年賀状は宛先不明で舞い戻ってきた。どうやら引っ越されたようだった。先生の年齢を考えると、幼稚園はもう退職されたと考えられた。早速インターネットで幼稚園の住所を調べ、切手を貼った転送用封筒を同封し、園長先生に手紙を送った。
「横田先生のご住所がお分かりでしたら、この手紙を転送して頂けますでしょうか」

数日後、横田先生からメールが届いた。幼稚園を退職され、ご主人の転勤に伴い、現在は静岡県に住まわれているとのことだった。そして、13年前の娘さんの死によるショックで、僕に対して何の連絡も、手助けも出来なかったことを詫びる文が記されてあった。涙が出そうだった。最近になってやっと立ち直り、そんな時に僕からの便りが届き、本当に嬉しいと書かれていた。

そのメールを受け取った1ヶ月後、ご主人の仕事で東京にいらした折、13年ぶりの再会を果たした。
「ご両親と静岡に遊びにきませんか。13年前、中途半端なままご両親にお会いすることもなく、心に引っかかっていました。4月は湖から眺める富士山が美しいです。あなたの創作意欲もかき立てられるでしょう」
そんな優しいお心遣いに甘え、僕は母と共に先生の元を訪ねた。2005年4月だった。

一日中ドライブで富士山の周辺を駆け巡り、僕たちは御殿場のホテルに泊まった。話し好きで、お茶目なところは全く変わっていない。
「カリフォルニアでの2週間は楽しかったね。私はあの研修旅行には何度かリーダーとして参加してたけど、あの年のことはよく覚えてるよ。本当に功君はアメリカに留学したくてしたくてね。私の顔を見れば留学の話だったわね。帰国してからも電話で“先生、僕は絶対に何が何でもアメリカに留学したいんです。だから、両親を説得して下さい”って言ってくるものだから、私はどうやったらご両親に理解して頂けるか凄く考えたのよ。物凄い熱意に何とかしてあげたいと思ったのよ。功君のことはずっと気に掛かっていたの。さっきから私の話ばかりしちゃってるから、そろそろ功君の話も聞かせて」
アメリカ留学に関しては、先生も随分と納得されていた。お子さんを3人ともアメリカに留学させていたからといって、盲目的にアメリカを絶対視していたのではなく、あらゆる角度から客観的にアメリカという国を見つめていらっしゃった。僕は、アメリカから帰国してからその後4年間、アメリカの夢に苦しんだ。アメリカに戻り「またここで生活するのか・・・」と愕然とする夢を定期的に、月1回は見ていた。それはフランス留学中も変わらずに見ていた。フランスから帰国した頃から、その夢を全く見なくなった。きっと、フランス留学が消化してくれたのだろう。
「夢にまで出てくるということは、相当辛い思いをしたのね・・・」
ひとつの側面だけではなく、アメリカ社会という現状をふまえた上で、僕の話を理解し、頷いてくれた。

優しい時の流れを感じながら、人との出会いの素晴らしさ、大切さ、貴重さを改めて思わせてくれた時間だった。横田先生との出会いによって、僕はひとつ、人生を豊かにする機会を与えられたと思っている。

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