第55話
「すべてはこの瞬間の為に…」

カーネギーホールでのコンサート当日は午前も午後もリハはなく、観光時間に充てられた。午前中、カーネギーホールの前を通った時、フィリップが「ここが明日コンサートするところだよ」と言った。
「何言ってんの?今日だよ!」
「ああそうか。今日か」
この日、フィリップは一日中変だった。

僕たちは地下鉄に乗ったりタクシーに乗ったり、はたまた歩き回ったりと、ニューヨークの街を楽しんでいた。移動中、ウェスリーを始め、ケネディー先生やフィリップの父親までもが、僕にヘンな英単語を覚えさせ(僕が訊いた場合もあるが)、周囲は大爆笑だった。歩いている時に僕が大声でそれを発音するものだから、他の歩行者たちに聞こえるからと慌てて「大声で言うんじゃない!!!」と笑いながら止められた。それまで、授業で一緒だったにも関わらずほとんど話したことのない人たちは、こぞって僕に「君って面白い人だったんだね」と言い、よく話すようになった。ウェスリーはことに「君は面白い!(You're funny!)」と言い、しょっちゅう僕をからかった。ニューヨーク旅行に参加して本当に良かったと思った。こんなにも友達の輪が広がるなんて思ってもみなかった。

高島屋の前を通ればケネディー先生が「コウ、タ〜カシ〜マヤ〜!」と叫び、どこかの店に入り日本のものを見つければ「コウ、日本のものがあるよ」と教えに来た。そして、「これは日本にもある?」「日本と比べてどう?」と様々な質問をされた。

ホテルに戻り、カーネギーホールでの最終リハーサルが始まるまでは何もすることがなく暇だった。フィリップは寝入っている。僕はフィリップの父親と夕飯を食べに出かけた。ここ最近、僕はケネディー先生にしても他の友達にしても、ふざけた会話ばかりしていたので、真面目でダンディーなおじさんと2人で食事をすることに緊張していた。ヘンなこと言わないように・・・礼儀正しく・・・などとヘンに気を遣っていたのだが、実は案外気さくな人で、会話が途切れることはなかった。彼も南ジョージアの出身で、僕がいたルイスヴィルのことは想像が出来ると言った。

カーネギーホールでの最終リハーサルが始まった。思った程大きな会場ではなく、意外な感じがしたが(相当でかいホールを想像していた)、伝統ある古いホールの、しかも世界中の人たちが憧れているステージに立てる歓びを噛み締めていた。ウェスリーは相変わらず僕をからかいながら元気一杯だったが、フィリップは寝起きだからと言いつつも、全く元気がない。リハーサルが終わり、客席に座る際、フィリップの横で僕とウェスリーがふざけ合い、僕がフィリップの隣に騒々しくドカリと座った。
「何やってんの、ジャップ・ボーイ!(What are you doing, Jap boy?)」
「君の国(アメリカ)なんて大嫌い!君は日本を好きだろうけど」
フィリップがやっと笑った。ジャップ(Jap)とは日本人に対する罵り言葉だが、彼は僕をたまにそう呼んだ。そして僕はアメリカを罵った。勿論、お互い冗談で。

コンサートが始まった。僕たちの出番は一番最後なので、気楽に鑑賞。明らかに自分たちが一番イイのではないかと思えた。ウェスリーに言うと、
「こいつらなんて、てんでダメ」
自分が音痴なのを知ってか知らずかの発言をしていた。ついに僕たちの出番がやって来た。僕たちが歌う7曲を僕は大好きになっていた。

Anthem of Spring(春の賛歌)
Agnus Dei(神の子羊)
The Omnipotence(全能の神)
Puff -The Magic Dragon-(パフ−マジック・ドラゴン−)
We Wish You Love(あなたに愛の恵みを)
Anthem for Peace(平和への賛歌)
Hymn to Freedom(自由への聖歌)

1曲1曲、歌が終わりきらないうちに拍手が鳴る。歌い終わると大きな拍手に包まれる。僕は味わったことのない恍惚感に酔いしれていた。最後の2曲の流れが、僕は最高に好きだった。ニューヨークで歌う「平和」と「自由」の意味。「平和への賛歌」を歌っている時、それまでのアメリカ生活が怒涛のように頭の中を駆け巡った。辛いことの方が多かった留学生活。笑うことがほとんどなかった日々。でも、もしかしたら、それらはすべて、今日この日、この場所での、この時間を迎える為のものだったのではないか、辛い出来事はすべてこの瞬間の為に・・・。周囲の人たちと和合し、笑い合い、大好きだと言える人たちと、こうして好きな歌を、しかもこんなにも凄いステージで歌いながら、恍惚感を覚えている。良かったんだ。今までのこと、全部間違っていなかったんだ!心の底からそう思えた。そして最後の曲を歌い終えた時、物凄い拍手と歓声が沸き起こり、ステージに立っている僕たちも周囲とハグ(抱き合うこと)しながら、成功を喜び合った。こんなに感動したことは、今迄になかった。僕はこの日が留学生活におけるハイライトとなり、それまでの苦悩が泡のように消えていくような気がしたのと同時に、自分が生きる“世界”はここだと実感していた。幼い頃から、ずっとずっと根拠もなく思い続けていたこと、「僕は歌を歌う人になる」という意識を確実なものにした。

この日は夜通し、ホテルでダンスパーティーが行われた。踊りが苦手な僕は、踊ることはしなかったが、ウェスリーたちと夜の街に買い出しに出かけたり、パーティー会場に行って雰囲気を楽しんだりしていた。だが、フィリップはやはり元気がない。凄くハイになったかと思えば、次の瞬間は暗い表情に戻っていたりする。ウェスリーが外に買い出しに行こうと誘った時も、「フィリップは・・・」と遠くでつまらなそうにしているフィリップを気遣ったのだが、「いいよいいよ、フィリップはあっちで楽しんでるんだから」と、ウェスリーは気にも留めなかった。そして、
「フィリップは気分屋なんだよ(He is moody.)」
とウェスリーは言った。確かにそうだと僕も思っていた。

しかし、元気になったり落ち込んだり、ぞっとするような暗い表情を見せたり、目に見えて分かる気分の差は、本当は別のところに原因があるということを、その時点で僕は何も知らなかった。知ったのはもう少し後、いや、本当の意味で知ったのは、僕が帰国した後、翌年のことだった。

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