第26話
「滑り出した学校生活」

キャス高校に行き始めて3週間程経った日。1時間目のタイピングの授業中、僕は初めて気を失った。自分がやる分のタイピングを全て終えた瞬間、まるで立ちくらみのように目の前が真っ暗になり、コンピューターの画面に突っ込んでいきそうになった。落ちていく・・・何か変・・・気持ち悪い・・・と思いながらも、「危ない」という意識は全くなかった。そしてふと気が付くと、僕は椅子から転げ落ちた状態で、床に倒れていた。見上げると、クラス中が僕に注目していた。僕は僕で何が起きたのか分からず、「大丈夫?」としきりに訊かれる問いに「大丈夫大丈夫、眠かっただけ」と答えた。確かに寝不足だった。でもただ単に居眠りしたのとは違ったが、その後は何事もなく体調不良ということもなかった。

次のアメリカ史の授業に行くと、「倒れたんだって?」と訊かれた。他の授業でも同じことを訊かれ、噂が広まるスピードの速さに驚いた。唯一の日本人留学生ということで、僕の行動は良くも悪くも広まりやすかった。正に「壁に耳あり、障子に目あり」という状況だった。真実ではないことが勝手に一人歩きして、間違った噂が流れていることもあったくらいだが、それらの類には特に気を留めることもなかった。どちらかというと、悪い噂よりも良い噂(ニュース)の方が多かった。

アメリカ史の担当教師ケーシー先生は、僕のたったの1年間という貴重な時間を、わざわざ苦手な「アメリカ史」の授業に費やさず、もっと自分の好きな授業を取ったらいいと言ってくれていた。でも、カウンセラーのマッキーナは常に「ダメ」という態度だったので、それをケーシー先生にも告げていた。
「音楽が好きなら、コーラス(合唱)の授業を取るといいよ。僕からマッキーナに話してみるよ」
そして実際ケーシー先生はそれを実行してくれて、先生のお陰でアメリカ史の代わりにコーラス(合唱)の授業を取ることが出来た。この授業変更は、僕の留学生活において重要な意味を持ち、良い意味での転機となった。

だが、ひとつ問題があった。アメリカ史の授業と代わりに取ることの出来るコーラスの授業は、女子ばかりだったのだ。男子がいるコーラスの授業は、僕がESLを取っている時間で、僕は何が何でもESLは外したくなかったのだ。そこでコーラス担当のケネディー先生は、「女子ばかりのクラスでひとり歌うのもナンだから、ピアノが弾けるなら、伴奏したらどうだい?」と言ってくれた。願ってもない申し出だった。アメリカに来て、ピアノという得意分野を活かせることがとても嬉しかった。

コーラスの授業の初日、僕はピアノで「さくらさくら変奏曲」を弾いた。どこのクラスに行ってもそうだったように、この時も沢山の質問を浴びた。
「日本には黒人いる?」
黒人の女の子の質問だった。
「いるよ」
「ジャパニーズ・ブラック(日系黒人)?」
クラス中が笑った。僕は、アフリカ人やアフリカ系アメリカ人たちが日本にも住んでいるという意味で言ったのだが、彼女は日系の黒人がいるのかと勘違いしたようだった。

特に仲のいい友達はいなかったが、学校生活は楽しくなりつつあった。しかし、ホームステイ先に関しては、またもや「ホストに好かれていないような気がする」という観念に悩まされていた。喋らない、おとなしい、ジョークも言わない、勉強ばかり、手紙ばかり、電話ばかり。それをしょっちゅう言われ続けることによって、僕はどんどん萎縮し、何をどうすればいいのか分からず、オロオロするだけだった。喋ろ、喋ろ、と言われれば言われるほど、何も喋れなくなっていくような感じだった。

ある夕方、ベリンダがディナーを買ってきたから食べなさいと言うので、台所にあったチキンを食べた。すると「あら、それは私のチキンよ!」と言って、僕はその日しぶとくそれを言われ続けた。更に、食べた後、ケチャップをテーブルの上に置いたままにしておいたら、
「ケチャップ片付けなさい!私はあなたのメイド(召使い)じゃないのよ!子供たちがちらかしたら、あなたが片付けなさい!」
と叱られた。その後、ロレインとベリンダが電話をしている時、「子供たちにはどうのこうの」「ケチャップがどうのこうの」などと話しているのが聞こえ、僕のことが話されているのだろうかと気になった。

思ったことを、たとえ感情的であろうとハッキリ言うベリンダはまだ良かった。機嫌が悪い時と良い時の差も激しかったので、それなりの対応も自分の身に付いてくる。しかし、デニーは口に出さなかった。笑顔を見ることもあまりなく、挨拶しか交わさない日が何日も続いた。特に目付きが気になった。何となくバカにしているような目付きに思えた。

とはいえ、ホストチェンジするような大きな理由もなければ、エリアレップに相談するような出来事もない。ルイスヴィルに比べれば遥かに良い暮らしだし、悪い人たちではない。そもそも、文化も環境も違う中で育ってきた人間同士が住むこと自体、容易なことではないのかも知れない。自分に本当に合うホストファミリーと出逢うことの方が難しいのだから、ここで頑張ろうと思った。

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