第65話
キケンじゃないマルセイユ

やっとの思いでホテルに着き、ドアを開けたところの真正面のフロントに、怪しく微笑むオバサンが座っていた。
「いらっしゃ〜い!」
眼鏡越しにニヤリと微笑み、僕たちを見据えて挨拶をしてきた。
「ボンジュール。予約していたタカハシです」
「ムッシュー・タカハシ、はいはい、3名ね。何泊?」
「3泊なんですけど、1人は2泊したら帰るので、3日目の夜だけ2人になるんですが・・・ダイ・・ジョウ・ブです・・・か?」
「問題ないわよ」
「あの・・・この界隈って、キケンですかね?」
「ぜーんぜん!キケンじゃないわよ」
「アハハハハ・・・そうですか」
このオバサンにかかればコワイものなんて何も無いのかも知れない。
「あの・・・」
「何かしら?」
「これから夕飯食べに出かける予定なんですけど、どの辺に行けばいいでしょうか?」
僕は地図を取り出して、オバサンの手元に置いた。
「あら、レストランなら、この界隈にわんさとあるわよ」
オバサンが指差したのは、港界隈だった。
「エッ?!港界隈ですか?」
「そうよ。レストランが沢山あるから、港界隈に行けばいいわ」
「でも・・・港界隈って危険なんじゃないですか?本にそう書いてあったんですけど」
「何言ってんのアンタ、ぜーんぜん危険なんかじゃないわよ!安全よ。大丈夫よ」
“危険じゃない”どころか、“安全”とまで言ってのけたこのオバサン。しかし、息せき切ってドアを開けた瞬間、一見怪しそうに見えるこのオバサンの微笑みが、警戒心とは裏腹に地獄で天使に出会ったかのような気持ちにさせられたのも事実。それに話していると、東京で言うなら江戸っ子っぷりな物言いが逆に頼もしく、僕たちはなぜかこのオバサンに心惹かれ、「天使のオバサン」と命名した。

部屋で一息ついてから、早速街中に繰り出した。さっきはちょっと恐れおののいていたが、落ち着いてみるとそこまで恐怖心を抱くところでもないようだ。天使のオバサンの助言に従い、僕たちは港界隈まで歩いて行った。ライトアップされている港、そして反対の山側も美しい。レストランが建ち並んでいるところは、やはり観光客向けでどこも高い。観光客向けに入って「正解」することは殆どない、ということを僕たちは学習中であった。ウェイターも大抵感じが悪い。
「何に致しましょう?」英語で問われる。
「ブイヤベースを2つと、ステーキを1つ」フランス語で答える。
「ブイヤベースを2つと、ステーキを1つですね。お飲み物は?」英語で問われる。
「水下さい」フランス語で答える。
「かしこまりました」これまた英語である。
観光客向けのレストランは大抵この調子だ。無愛想な上に、失礼極まりない。

せっかくマルセイユに来たのだから名物ブイヤベースを食べなきゃ!と3人で張り切っていたが、なぜか注文の段階になってイワデレは道を外れた。
「ブイヤベースちょっと頂戴よ」
「まったくもう」
そうこうしているうちに、先程の感じ悪いウェイターが料理を抱えてやって来た。
「ブイヤベースの方は・・・?」英語で問われる。
「こちらとそちらです」フランス語で答える。
「はいどうぞ。ステーキの方・・・どうぞ。ご注文よろしいですか?」英語で問われる。
「はい」フランス語で答える。
ブイヤベースとは、元々は漁師が売れない魚を大鍋で煮て食べていた料理で、実際、魚介類をトマトやサフランで味付けしたスープの中でごった煮した大雑把なもの、という印象を受けた。最初こそ美味しいと思って食べたが、次第に口飽きした。ブイヤベースを外したイワデレは賢かった。きっと、美味しいレストランに行けばそれなりの味なのだろうが。
「他にご注文は?」再びウェイター。勿論英語。
「お水下さい」フランス語で答える。
「かしこまりました」
「あの、英語は分からないんですけど。僕たち、フランスの大学でフランス文学を専攻してるので、フランス語で話して下さい」
これは嘘だが、たまりかねた僕はそう言った。日本語も少し披露していたが、どうも“外国人観光客”となると、英語を口をついて出る人が観光都市には多い。よって、こちらがフランス語で返しているのに、フランス人である相手が英語のまま話し続けることもザラである。

食事を終えて、飲みに行こうとバーを探す。しかしなかなか見付からない。若者が沢山いるような店を探していたのだが、ちょっと覗いたディスコっぽいところは、それこそ妙に怪しくコワイ雰囲気。仕方なしに、オッサンたちが集まるような店に入った。なぜか落ち着く。オヤジ・バーと命名。ウェイターのオッサンも気さくで話しやすい。
「あれ?この店、“TAXI”に出て来た店じゃない?」
「絶対そうだよ〜!」
ポン子とイワデレが小盛り上がりした。その後、僕も映画を観てみたら、実際その店が出ていた。ニクイ偶然だなぁ!それにしても、この居心地のいいオヤジ・バーには長々と居座り、ホテルに戻ったのは夜中の1時半。疲れ果てて、3人共すぐさま眠りついた。


第66話につづく

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