第50話
アルハンブラ宮殿の想い出

2月5日(金)。4泊したバルセロナに別れを告げ、夕方、長距離バスに乗り込んだ。一番楽で一番安上がりなバス移動。朝になれば、また違うスペインの顔に出会うのだ。バルセロナからスタートした旅は、どんどん南下する予定だ。それにしても、スペインの大地は熱い。同じヨーロッパなのにフランスとは違う風。「ピレネーを越えたら、そこはアフリカ」という言葉は本当だ。夕方バスに乗り込み、一眠りしてふと目が覚めると、辺りはだだっ広い大地。そして、その大地を走るバスの窓から眺める、乾いた空気の中で沈む夕陽は焼けるように情熱的な赤だ。(余談:僕のオリジナル曲「Fantasma」はスペインを舞台にしているラテン調の歌である)

バルセロナから向かった先はグラナダ。子供の頃に弾いたことのある「アルハンブラの想い出」という曲を思い出していた。あの切ないメロディーは、グラナダにある「アルハンブラ宮殿」から生まれたものなのだろうか。

僕の心は「南国の陽気さ」を求めていたが、早朝に着いたグラナダは、僕の求めていた風景とは全く異なり、もはや気持ちは陰に向かってしまった。冬の、寒くて暗い朝だったからだろうか、華々しかったバルセロナとのギャップにも戸惑っていた。明るくなるまで座って待っていたのだが、それにしても寒い!ようやく陽が照ってきた頃、世界的に有名な「アルハンブラ宮殿」に向かって歩き出した。途中、道が分からなくなり、誰かに訊こうと思っても、「どうせ英語もフランス語も通じないだろうな」と思うと憂鬱になってくる。何人もすれ違う中、向こうから歩いてくる若い女性に訊いてみようと決め、思い切って声をかけた(学生なら英語を話せる場合が多い)。まず「フランス語話せますか?」と訊いてみたところ、とてもにこやかに「Oui(ウイ=「はい」)」と返してきた!偶然にも、その人はモロッコ人でフランス語は彼女の母語だった。丁寧に道を教えて貰い、別れようと思った時に、更なる偶然があった。僕が日本人だと知るや否や、
「私に日本人の友人がいたの。グラナダの学校に留学しに来ていて、京都から来た女の子だった。確か、あなたと同じ、京都外国語大学出身だったと思う」
その話に高揚する僕。

だがその高揚感も束の間で、僕の気持ちは陰のまま。イスラム勢が栄華を誇っていた遠い昔、キリスト教に追われて宮殿を去らなくてはならなくなってしまった“切ない”過去を遺すアルハンブラ宮殿は豪華絢爛そのもの。しかも広大だ。それなのに、なぜか僕はそこを回ることさえ億劫に感じてしまっていた。バスで宮殿に向かう途中、中国人青年に話し掛けられた。ところが、ただでさえ機嫌の良くない僕は、彼の話す英語がとてつもなく聞き取り辛く、話すのがかなり億劫になっていた。精神状態が良くない時は、外国語を話すのがイヤになってしまうけれど、強いアクセントのある外国語を、全神経を集中させて一生懸命聞き取るのは本当に疲れる作業である(逆の立場になったことも考えずして、そんなことを思ってしまう)。彼はフランス語は話せないと言うし、英語で話すしかなかったのだが、誰とも話したくなかった僕は、彼の話にはあまり乗らなかった。なのにも関わらず、彼はとても愛想が良く、僕に名刺をくれた。風貌や立ち振る舞い、それから名刺の肩書きを見る限り、彼はいわゆる「エリート」だった。きっと、同じアジア人として色々と話をしたかったのだろう、一緒に宮殿を見て回りたかったようだったが、僕はそれを拒否してしまった。実際のところ、英語は話したくなかったし、ひとりでいたかったのだ。

疲れ気味の僕は、“ダルい”と思いながらも宮殿をてくてく歩いて回った。その途中、何度か例の中国人青年ともすれ違い、その度に愛想良く会釈してきた。

本当はグラナダに1泊するつもりでいたのだが、どうしても南国っぽい街でないと心が拒否する感じで、寂しげな印象を受けたグラナダに滞在する気が起こらず、夕方にはまた夜行バスに乗って次の街へと旅立つことにした。

≪後日談≫
この旅から数年後、部屋の整理をしている時、グラナダで出会った中国人青年に貰った名刺が出てきた。苦い思い出として甦ってくるグラナダでの出来事。人の良さそうな彼に冷たくしてしまったことで、それ以来、心にひっかかるものが残ってしまったのだ。今でもたまに思い出す。そしてもし、あの時一生懸命会話をし、一緒に宮殿を回り、仲良くなったとしたならば、後に中国の物凄い“豪邸”に「招待」されたのではないか・・・でもって、家族一同から大歓迎されて、手厚くもてなされたのではないか・・・なんて、都合のいいズルイことを考えたりする。今ならば、出会いを無駄にすることはないだろう。嗚呼、若さって・・・。

第51話につづく

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