第38話
東から来た人

あのあやしい男はもういなかった。ホッと一息つき、荷物を整理していると、東洋人の男が部屋に入ってきた。「ボンジュール」とフランス語で挨拶をされたので、僕もフランス語で返した。彼はその後もフランス語で話し続ける。どこの人なのだろう?韓国人だろうか。思い切って、「どこから来たの?」と訊いてみた。すると、返ってきた答えは意外にも、「東から」の一言のみ。自分の国名を言えない事情でもあるのだろうか?僕も同じ質問をされたので、「フランスから」と答えた。
「今はフランスに住んでるけど、日本から来た」
そう付け加えると、彼の表情が一瞬にして穏やかになった。
「えっ?日本人?」
僕もビックリした。実は彼も日本人だったのだ。なんと、お互いがお互いを韓国人だとばかり思っていたらしい。日本人同士だとは知らず、しばらくフランス語で話していたなんて!

彼はいわゆるバックパッカーで、バックパックを背負って旅を続けている人だった。旅人の話は興味深い。いろんな土地で様々な価値観に触れることで視野が広がり、独特な視点や考えを持つようになる。聞いているだけで、心が豊かになったような気になれる。しかし、旅人は旅人でも、自分の国や民族を誇りに思い、アイデンティティーをしっかりと持っている人の場合に限る。彼は「自分が日本人であること」「日本から来たこと」を誇りに思えず、どこから来たのかと問われると「東から」と答えるのだと言う。僕は違和感と虚しさを覚えた。日本という国がイヤで、日本ではとかくイヤな思いばかりをしてきて、仕事を辞め、今はこうしてバックパックを背にヨーロッパをひとりで旅している。将来は、この辺り(スイスやフランス)で結婚して幸せに暮らしたい、と言う。こんなに自国のことを嫌ったり、自分の源を否定する人に会ったのは久しぶりだった。

僕にもそんな時期はあった。中学時代、日本という国も、日本人という民族も、日本語という言語も、個性を尊重しない日本の文化や風習も教育制度も、何もかもを否定的に捉えていた。そして僕が夢中になったのはアメリカだった。当時、僕は毎日アメリカを夢見た。安直にアメリカが自分の全てだと思っていた。ところが、高校に入学すると同時に、“アメリカ一辺倒”が突然崩れた。アメリカ留学すべく頑張っていたので、勿論アメリカに対する恋焦がれるような情熱は失われなかったが、日本に対する思いが沸々と湧き出してきたのだ。日本をもっと知りたい、日本に居たい、そう思うようになった。突然変異のように見えたが、それは環境が変わったことがプラスに動いたのだと思う。

自国を知らずして外国は語れない。自分の根っこを受け入れず、また知らずして前進することは出来ない。逃げるようにして母国を去った彼は、とことんマイナス思考だった。僕は自分のことや、自分の過去を淡々と話しながら、彼の話を聞いて「自分だったらこうするけどな」などと、彼とは全く違う行動に出ることを話すと、彼にはそれが新鮮で驚きだったらしく、何かと僕に意見を求めてきた。
「君みたいな人には会ったことがない」
と言い、彼は次々に質問を浴びせてくる。しかし僕は、段々瞼が重くなってくる。もう既に話し始めて4時間が経ち、もう深夜12時を過ぎているのだ。彼の「自国をけなす」発言を聞くのも疲れるし、そのマイナスだらけの思考を聞かされるのもウンザリだった。話を聞きながら、意識は遠のく。頭は既に寝ている。ボーッとしながら話を聞く。すると彼は、
「・・・で、そのことについてはどう思う?」
と意見を求めてくる。「そのこと」って何?!聞いてないので、答えようがない。
「え、ああ、そうだねぇ、うーん・・・まぁ、そうだよねぇ」
ヒヤヒヤしながら適当に言葉を濁した。

翌朝は、彼の方が早くユースを出たようで、僕が起きたら既にいなかった。

第39話につづく

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